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Z・トペリウス 『フィンランド読本』 (スウェーデン語版初版1875年,フィンランド語版初版1876年) より

フィンランド人マッティ


ある男に,ロシア人のイワン,スウェーデン人のエーリック,フィンランド人のマッティという3人の使用人があった。ある夏の日の朝,主人は,使用人たちを石のごろごろとした高台へ行かせ,それぞれに別の場所を指定して開墾させた。ロシア人のイワンは,歌いながら楽しそうに耕し,昼までに与えられた仕事を終えてしまった。スウェーデン人のエーリックは,ある時は笑いながら,ある時はぶつぶつ言いながら耕し,昼過ぎに仕事を終えてしまった。フィンランド人のマッティは,不満そうな顔をし,しばらく何かを考えた後,仕事に取りかかり,終えたのは夕方遅くだった。

3人の仕事が終わると,主人の男が点検にやってきて,こう言った。「イワン,お前の仕事は手際がいいが,石をひとつもどけていない。エーリック,お前は,小さな石ころはどけたが,大きな石はそのままにしてある。マッティ,お前は,大きな石をどけたが,小さな石ころはそのままにした。3人それぞれ,いいところと悪いところがある。次回からは,イワンには,畑の草取りと地面を均す仕事を,エーリックには,牧草地を掘り返す仕事を,マッティには石を掘り出して取り除く仕事をしてもらうことにする。」

こうして,フィンランド人のマッティは,石の掘り起こしを専門とすることになった。この熟考型の男についてもっと知りたい向きのために少し説明すると,マッティは,中肉中背で,肩が張り,たくましい腕を持ち,たいへん持久力がある。髪の色は茶系,目は灰色,肌の色は白っぽく,やや引っ込んだ鼻を持ち,唇は薄く,幅広い顔をしている。彼は,つまり,どうひいき目に見ても,美男子からは程遠いが,彼には,茶色の目をした兄や弟,金髪の姉や妹がいる。マッティの振る舞いは,ぎこちなく,表情に乏しく,まさに,石を掘り起こすのをなりわいとする者にふさわしい。彼は,長い道のりを,しっかりと足を踏み締め,ゆったりと歩く。若いころは,よくダンスを踊ったと言われるが,これは揶揄と考えた方がよい。なぜなら,今では,そのダンスの心得とやらの片鱗すら伺えないからだ。

マッティは,決してあわてない性格である。人付き合いが下手で,はにかみ屋である。しかし,ごく親しい友人たちとしばらく一緒にいると,こころが打ち解けて,人が変わったようになる。ぎこちない体付きがほぐれ,楽しそうな顔をすることがあり,時には,彼なりに生き生きすることがある。彼が,冗談を言ったり,人をからかったりする様は,彼のふだんのくそまじめさからはとても想像ができないほどである。彼は好んで,自分や他人のばかな行為を笑いの対象とする。ふだんは口数も少なく,静かな男だが,時として,回りの人間が聞く耳を持たないほど饒舌になることがある。おわかりと思うが,マッティの欠点は,話さなければならない場面で沈黙し,静かにしているべき場面で口を開くところにある。

マッティは,ほんとうに正直な男なので,泥棒ということばを他の言語から借りてこなければならなかった程である。彼はまた,落ち着いた男である。急流を下ったり,5メートルの至近距離から熊をねらい撃ちしたり,火薬庫の屋根の火を消したりする場合でも,決して怖じ気づくことはない。戦場においてさえ,走るということを学びそこなったほどである。彼は,危険が近づくのを知ったときでも,また危険の中に身をおいているときでも,決して恐れない。しかし,本当はとても用心深い。マッティが,動きが遅くて,しばしば遅刻するということは,万人の知るところとなっている。道で知り合いに会っても,彼があいさつのことばを口にするころには,相手はすでにずいぶんと離れたところにいってしまっている。ときには,長すぎるくらい物事を考えたあとで,突如として,すばやい行動を起こすことがないわけではない。いつまでもいつまでも考えていて,それから急に行動に移るというのが,マッティのお決まりのパタンである。彼は,いろいろな場所に遅刻し,先に着いた仲間を待たせる常習犯で,最近できた鉄道の正確な列車の運行には悩まされっぱなしである。しかし,失敗から学ぶことも得意で,今では,どこへ行くときにも,念のため1時間早くやってくることにしている。マッティがひどく頑固であるということも,周知の事実である。彼のこの頑固さは,持久力が裏目に出たものといえる。一度頭に浮かんだ考えは,どんなことがあっても最後まで貫こうと思うのである。今立っているところに,ずっと立っていようとする。しかし,そそのかして何かをやらせようと思ったところで,彼にその気がない場合は,まったくの骨折り損ということになる。マッティの兄弟のひとりは,非常に背が高かったが,バケツの水に飛び込んで溺れて死んだ。バケツの水で溺れようと決心したので,容易なことではなかったろうが,何が何でもそれを実行したのである。マッティは,常に考える時間を必要とする。彼は,新しいものごとをすべて疑ってかかり,それになじむまでに時間がかかる。そのため,あらゆる新しい流行を嫌い,世間がその流行に飽きてしまったころ,やっとそのすばらしさに目を開くということになる。マッティの一族には,新しい事業をはじめた起業家は少ないが,起業家に従った者は大勢いる。新しい事業を始めた者がその仕事を途中で投げ出すと,回りの者もそろってそれに習う。何もしない者たちは,こぞって何かを実行している者たちを批判する。

マッティのエンジンがなかなかかからないという性格は,相当な段階まで腹を立てずにに我慢できる一方で,いったん腹を立てると,前後の見境がなくなるまで徹底的に怒るという点にも現れている。ひどい飢饉の年を質素な生活で乗り切ることができるかと思うと,ちょっとした時期外れの雨に対してぶつぶつ文句をいったりする。自分が全財産を失うきっかけを作った憎き張本人を赦してしまうかと思うと,馬のおもがいに付ける端綱(はづな)を盗まれただけなのに,裁判を起こしたりする。

マッティは,自分の馬と田畑とサウナと仕事場と,古いがねらいの確かな猟銃をこよなく愛している。彼の兄弟の中には,商売のために,陸路や海路をあちこち旅している者もいる。マッティは,明日のことを心配しないで暮らせる自宅にいるのが一番好きで,ライ麦パンとおかゆとニシンか何かの魚とジャガイモがとりあえず今日必要なだけあれば,自分は裕福だと考えて満足する。いざというときには,松の樹皮の内側の軟らかい部分を粉に挽いたのを焼いて,パンの代わりにすればいい。ときに,彼は腹いっぱい食事をしたあとで,仕事をしないでごろごろし始めることがあるが,たいていは,堅実に仕事をしている。収入と支出をもう少しきちんと管理しても罰はあたらないだろうと傍には思われるが,明日のことを考えて節約するというのは,どうもマッティの性分には合わないようだ。彼が浪費と貧乏を繰り返す一方で,他の人間たちは彼を食い物にして豊かになっていく。足もとに置かれた金銀財宝の山を見ても,手を伸ばしてつかみ取るということしない。マッティには,生まれついた知恵がないわけではないが,彼ほど騙されやすい人はいない。自分の駿馬を取られて,かわりに足に病気のある馬を売りつけられても,得をしたと思ってしまう。

マッティは,すすんで人を助け,また人を喜んでもてなす,信頼のおける忠実な男である。冬は眠り,夏目覚め,音楽を好んで聞き,美しい歌を作り,熟考を必要とする物事が三度の飯より好きな男である。彼は,なぞなぞを解いたり,ウィットの効いたことわざの意味を考えるのが得意である。彼はどんな物事に対しても,徹底的にかかわることをよしとする。井戸を掘るなら,地球の反対側に出てしまいそうなくらい深い井戸を掘る。子どもの頃理解できなかった教理問答集の問題をいつまでも覚えていて,大人になってから,なぜ神はこんな自分をこの世にお送りになったのだろうと,何年も悩んだりする。

マッティのもう少し素行のよい兄弟姉妹たちについては語るまでもないだろう。彼らは,外見上少しばかり洗練されているように見えるが,一皮むけばマッティの性格と似たり寄ったりであることがわかる。この広い手のひらと誠実な心をもつ男に神の祝福あれ。マッティは欠点だらけで,人の言うことを聞かない。しかし,神が,畑の石を掘り起こして取り除く作業のために人手が必要なとき,石の多い高台に行くよう命じられるのはマッティである。それがマッティに与えられた仕事である。われわれがどんな仕事に適しているか,神はよくご存じなのである。

【松村一登 訳】


更新日: 2004/05/12